NITTANの歩み
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黎明期 1924年~1947年(大正13年~昭和22年)
「自動車用鍛工品製造への挑戦」
久保田鉄工所(現・株式会社クボタ)の借地、約300坪からスタートした恩加島鉄工所。
創業者柴柳新二氏は勃興する自動車工業に着目し、昭和初期ににヨーロッパの主要工業国やアメリカの自動車工業界を視察。
エンジンバルブの製造方法を調査し、当時の最新鋭機械設備を海外から購入。国内でいち早く自動車用エンジンバルブの製造を実現。
その後も事業の拡大を続け、当社の前身となる(旧)日本鍛工株式会社へと発展する。
1923年
東京、神奈川を中心に関東一円に大きな被害をもたらした関東大震災が発生
1924年
初代社長 柴柳新二氏、恩加島鉄工所(大阪市南恩加島町)を創立
創業者 柴柳新二
創業時の恩加島鉄工所
1929年
ニューヨーク証券取引所での株の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生。日本も深刻な
影響を受ける
1931年
満州事変が勃発。日本と中華民国との間で
武力紛争が起こる
1934年
ドイツより電気アプセッターを導入、
我が国初のエンジンバルブの量産化に
着手
輸入機械を加え新鋭機で整備された
恩加島鉄工所(神埼工場)
1936年
日本陸軍の青年将校らによる軍事クーデーター2.26事件が勃発
1937年
日本鍛工株式会社を創立、恩加島鉄工所を合併(大阪市西淀川区佃町)
設立当初の日本鍛工(株) 川崎工場
日中戦争が勃発。日本は戦争への道を歩み始めることに
1939年
ドイツ軍がポーランドへ侵攻、イギリス・
フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が開始される
1941年
日本海軍が真珠湾を奇襲、太平洋戦争が勃発
1943年
航空機用中空エンジンバルブの生産を行うため、秦野工場の建設に着手
日本鍛工(株) 秦野工場と地鎮祭の様子
創成期 1948年~1967年(昭和23年~昭和42年)
「エンジンバルブ製造のトップメーカーへ」
航空機のエンジンバルブなど軍需製品も生産していた(旧)日本鍛工株式会社は、終戦に伴い政府からの軍需補償の打ち切りや、川崎工場と秦野工場が賠償施設に指定されるなど大きな損失を受けた。損失の合計額は1億円(現在の貨幣価値に換算すると約200億円)近いものとなった。企業再建整備法に基づき、東日本鍛工株式会社(現・株式会社シンニッタン)・西日本鍛工株式会社(現・日本鍛工株式会社)・日鍛バルブ製造株式会社(当社)として新たなスタートを切ることとなる。当社は設立時、機械装置は賠償指定下におかれており、賃借機械しか持たない資本金200万円の小規模会社であった。しかし戦前より培われた技術は失われておらず、エンジンバルブ製造のトップメーカーへと成長していく。
1945年
第2次世界大戦が終結し、国際平和の維持・安定を目的に国際連合が設立される
1948年
旧日本鍛工株式会社より分離し、日鍛バルブ製造株式会社を設立
1949年
- 湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞
- 中華人民共和国成立
1954年
戦後初のステライト盛弁を国産トラック用の
ディーゼルエンジン向けに生産
日本の遠洋マグロ漁船第五福竜丸が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びる
1956年
本田宗一郎氏来社、二輪レーサーマシン用
中空エンジンバルブを戦後初試作
英国マン島のT.Tレースにおける本田の活躍に貢献、
二輪エンジンバルブ受注の端緒となる
西ドイツGPで250cc
初優勝したRC162(1961年)
※本田技研工業株式会社提供
日本が国際連合に加盟し国際社会の一員として認められるようになった
1957年
三菱造船株式会社長崎造船所より、国内最大の
大型ディーゼル主機関のエンジンバルブを受注
エリコン倣旋盤の導入とともに
大型船舶用エンジンバルブの生産開始
三菱UEディーゼルエンジンを搭載した大型船
ソビエト連邦が、世界初の人工衛星・スプートニク1号の打上げに成功
1961年
社名を「日鍛バルブ株式会社」に変更
人類初の有人衛星、ソ連宇宙船ボストーク1号が、ユーリイ・ガガーリン飛行士を乗せ地球一周に成功
1963年
BLW社と精密鍛造歯車の製造に関して技術提携
初の日米間の衛星中継実験に成功(ケネディ大統領暗殺事件を伝える)
飛躍期 1968年~1990年(昭和43年~平成2年)
「海外進出と動弁系部品の開発」
1960年代、日本の大手2輪車メーカーは海外市場の開拓に本腰を入れ、続々と販売会社や工場などの現地法人を設立し始めていた。当社は、台湾に海外初進出となる合弁会社を設立し、部品メーカーとしていち早く海外展開を実施することとなる。また、エンジンバルブ・精密鍛造歯車メーカーとしての共通点を持ち、以前より一部技術の交流など友好関係を続けていた米国イートン社と技術提携がなされた。この提携を機にエンジンバルブ以外の動弁系部品の開発や生産に乗り出すこととなり事業が拡大される。また1980年代初頭の米国に4輪車生産拠点を設立した本田技研工業株式会社は、その生産活動の規模拡大を図るとともに部品の現地調達率向上も推進されていた。同社の現地調達化のニーズに応えるべく、米国サウスカロライナ州に海外2拠点目となる合弁会社を設立することとなる。
1968年
台湾にエンジンバルブ製造の合弁会社「台湾日鍛工業股份有限公司」を設立
ロバート・ケネディ暗殺事件
1973年
第四次中東戦争でオイルショック。モノ不足や大手商社の買い占めが行われる
1978年
米国イートン社と技術、資本、販売に関して提携
イートン社デウィントン
会長を迎えて
(於 大磯プリンスホテル)
新東京国際空港(現成田国際空港)開港
1980年
米国イートン社と油圧バルブリフターに関する共同開発契約締結
日本の自動車生産台数が世界第1位に。名実ともに「自動車大国」となる
1982年
世界初の軽量高速用超小型油圧式バルブリフターの開発、量産開始
東北新幹線 大宮-盛岡間(465.2km)が開業
1984年
山陽工場竣工、エンジンバルブの量産開始
スペースシャトルディスカバリー、初の打ち上げに成功
1986年
- 世界最小軽量ロッカーアーム組込式油圧式バルブリフターの開発、量産開始
- 山陽工場で油圧式バルブリフターの生産開始
ソビエト連邦(現・ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で大規模な爆発事故が発生
1988年
米国サウスカロライナ州にエンジンバルブ製造の合弁会社「U.S.エンジンバルブ(パートナーシップ)」を設立
設立当初のU.S.エンジンバルブ
(パートナーシップ)の工場内
青函トンネル、瀬戸大橋が開通
1989年
昭和天皇が崩御し、元号が平成となる
1990年
株が大暴落しバブル経済が崩壊。急速な景気後退に見舞われる
挑戦期 1991年~2007年(平成2年~平成19年)
「グローバル展開の加速と世界同一品質を目指して」
日本の大手2輪車メーカーは、1970年代から80年代にかけて発展途上国に生産拠点を設立し、当初は日本からほとんどの部品を輸出し、現地で組み立てる「ノックダウン方式」で行われていたが、徐々に現地での部品調達率を高め、最終的には現地で素材・部品の全てを調達することを目指すようになった。また1990年代、2輪国内市場の収縮が起こっていたが、対照的にアジア市場は急成長を遂げており、その視点を海外に移していった。当社も2輪車メーカーの現地調達化のニーズに応えるべく、インドネシア、タイに合弁会社を設立する。また同時期に韓国、2000年代初頭には中国へも進出。海外拠点が増える中、今現在も続く世界同一品質を目指した取り組みは、海外のお客様からも高評価をいただくこととなる。小規模会社から出発した当社が、グローバル企業へ挑戦・変貌した時期でもある。
1991年
NPMキックオフ大会
イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発。ソビエト連邦が崩壊する
1995年
- 韓国にバルブリフター製造の合併会社「新和精密株式会社」を設立
- インドネシアにエンジンバルブ製造の合弁会社
「PT. フェデラル ニッタンインダストリーズ」を設立
1月、阪神淡路大震災が発生し兵庫県を中心に大きな被害を受ける。また3月には、地下鉄サリン事件が発生
1997年
- タイにエンジンバルブ製造の合併会社「ニッタンタイランドCo., Ltd.」を設立
タイ政府によるタイバーツの変動相場制導入により、アジア通貨危機が始まる
1999年
ボルボ・カー・コーポレーションより 1999年度ボルボ自動車優良賞 受賞
茨城県東海村の核燃料施設JCOで日本初の臨界事故が発生
2001年
9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起き、世界中の人々に大きなショックを与えた
2002年
フォード社より「フォード世界優良賞(金賞)」受賞
アジアでは初めてのサッカーワールドカップを日韓共同で開催
2003年
- 台湾日鍛工業股份有限公司の出資により、中国にエンジンバルブ製造の子会社
- 「広州日鍛汽門有限公司」を設立
- ボルボ・カー・コーポレーションより 2003年度ボルボ自動車優良賞 受賞
- フォード社より「フォード世界優良賞(銀賞)」受賞
中国で新型肺炎SARSが大流行
2004年
新和精密株式会社の出資により、中国にバルブリフター製造の子会社
「北京柳成新和汽車部件有限公司」を設立
スマトラ島沖地震が発生。津波などにより14カ国以上の国で被害を受ける
2005年
世界初となるエンジンバルブ製造合理化ライン導入(Next Generation Valve Line=NGVライン)
日本国際博覧会(愛知万博)「愛・地球博」が開幕
2007年
バルチラ社より舶用部品工場が多数企業の中から8社のみが選出される
「ベストサプライヤー8」を受賞
新潟県中越沖地震が発生
革新期 2008年~2018年(平成20年~平成30年)
「グループ再編と技術革新」
完成車メーカーの部品の現地調達化がますます進む中、当社はグループの再編を行い米国イートン社との関係をさらに強化。北米・アジアのみならず欧州に同社との合弁会社を設立したことで、お客様のニーズに合わせた世界規模での最適調達を可能とする体制を確立。その一方、競合メーカーの海外進出や現地部品メーカーの躍進などにより、さらなる開発力や価格競争力が求められる厳しい時代へ突入する。当社は、世界初となる省人化ラインNext Generation Valve Lineを海外に展開しコスト競争力を強化、国内では高付加価値製品の開発に取り組み、傘中空エンジンバルブを独自開発し自社での一貫生産を行うなど技術革新を常に行っている。また、インドに当社単独で海外進出を果たし、LEDを使った無農薬野菜の生産・販売を行う株式会社Shune365を設立し異業種への参入を行うなど、あらゆる面で革新を続けている。
2008年
- グローバル市場における事業戦略
としてグループ再編を実施 - 米国イートン社との出資により
グローバル展開のマネジメントを
目的とした「ニッタン・グローバル・
テック株式会社」を設立 - 米国イートン社との出資により
ポーランドにエンジンバルブ製造の
合弁会社「ニッタン・ユーロ・テック
sp. z o.o.」を設立
グループ再編に関する記者会見風景
アメリカの投資銀行であるリーマン・ブラザーズが経営破綻し、世界的な金融危機を招く事になる
2009年
韓国に陸上および船舶用エンジンバルブ製造の合弁会社
「ケイエヌテック株式会社」を設立
第45回衆議院選挙で民主党が大勝し、初めて非自民を中心とする民主党政権が誕生。政権交代へ
2010年
エンジンバルブ製造合理化ライン
(Next Generation Valve Line)を、
ニッタン・ユーロ・テック
sp. z o.o.およびU.S.エンジンバルブ
(パートナーシップ)に導入
搬入待ちをする
トラック
(於 ポーランド)
当社技術者による
据付作業
(於 アメリカ)
2011年
3月11日に東日本大震災が発生。東北沿岸部を中心に津波による大被害を受ける
2012年
- ベトナムにエンジンバルブ製造の合弁会社
「ニッタンベトナムCo., Ltd.」を設立 - 新和精密株式会社および株式会社タカハシテクノとの合弁により、
韓国にバルブリフター原材料の製造販売を目的とした
「新和タカハシプレス株式会社」を設立
高さ634メートルの東京スカイツリーが開業
2013年
- 韓国に当社の営業および製品メンテナンス業務を目的とした
「韓国日鍛株式会社」を設立 - インドにエンジンバルブ製造の子会社
「ニッタンインディアテック Pvt. Ltd.」を設立、初の海外単独進出
富士山が世界文化遺産に登録される。また2020年夏季オリンピック開催都市が東京に決定
2014年
- 新和精密株式会社の出資により、中国にバルブリフターの製造販売を目的とした「日照柳成新和汽車部件有限公司」
を設立 - 舶用部品工場にて2,000tonプレス導入
- 山陽工場に傘中空エンジンバルブラインを新設
- 新エンジンバルブ製造合理化ライン(New-Next Generation Valve Line)をニッタンタイランドCo., Ltd.に導入
2,000tonプレス
導入時のテープ
カット風景
傘中空エンジン
バルブラインの
一部
2015年
人工光技術における無農薬野菜の
生産と販売を目的とした
「株式会社Shune365」 を設立
LEDで栽培される
葉野菜
同社の会社ロゴ
とスローガン
「旬の美味しい
野菜を365日
お届け致します」
マイナンバー制度が施行され、個人番号カードの交付も始まる
2016年
- 現代自動車様より
ベストサプライヤー賞受賞 - 本田技研工業株式会社様より
優良感謝賞を受賞
2017年
- 本社工場で乗用車向けパーキングブレーキ用部品(PBW)の生産開始
2018年
- 中国(山東省)にエンジンバルブ製造の合弁会社「日照日鍛汽門有限公司」を設立、傘中空エンジンバルブの量産開始
- 創立70周年記念式典開催
於:秦野市文化会館(現・クアーズテック秦野カルチャーホール)
2019年
東京事務所を東京本社に改称し、二本社制に移行
新元号「令和」に改元
2020年
新型コロナウイルス、世界各地に広がる
2021年
- 中国(山東省)にバルブリフター製造の合弁会社「日照艾斯琵汽車部件有限公司」を設立
- 秦野本社工場にテニスコート完成
1年延期した東京オリンピックが開催